落胆・カレーライス・三日月。
2004年12月18日 読書すみれがぼくにとってどれほど大事な、かけがえのない存在であったかということが、あらためて理解できた。すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。すみれと会って話をしているとき、あるいは彼女の書いた文章を読んでいるとき、ぼくの意識は静かに拡大し、これまで見たこともない風景を目にすることができた。ぼくと彼女は自然に心をかさねあわせることができた。ぼくとすみれは、ちょうどふつうの若いカップルが服を脱いでお互いの裸体を晒しあうように、それぞれの心を開いて見せあうことができた。それはほかの場所では、他の相手では、まず経験できない種類のことだったし、ぼくらはそのような気持ちのありかを損なわないようにー口には出さずともー大事にていねいに扱っていた。
<中略>
しかしぼくはすみれを誰よりも愛していたし、求めていた。どこにもたどりつけないからといって、その気持ちを簡単に棚上げにしてしまうわけにはいかなかった。それにかわるべきものなどどこにもないのだから。
そしてまたぼくは、いつか「唐突な大きな転換」が訪れることを夢見ていた。たとえ実現する可能性が小さいにしても、少なくともぼくには夢を見る権利があった。もちろんそれは結局、実現することはなかったのだけれど。
ぼくは何度も何度もその文章を読んだ。記憶して暗唱できるくらい綿密に読み返した。そしてそれらを読み返しているあいだだけ、ぼくはすみれとともに時間を過ごし、彼女と心をかさねあわせることができた。それはぼくの心を、ほかのどんなものよりも親密に温めてくれた。茫漠とした夜の荒野を抜けていく汽車の窓から、遠くの農家の小さな明かりが見えるように。それはあっという間に背後の闇に吸い込まれて消えてしまう。でも眼を閉じると、その光の点はしばらくのあいだ網膜の上に淡くとどまっている。
というぶぶんを、朝、電車のなかで読んでいて、涙が出てきた。
最近、感受性豊か=こまかいことを気にする、なのかなぁ、ちょっと損してるのかなぁ、と、最近の落ち込みに合わせて?おもっている。感動してもそれを伝える相手がいないと、「せきをしてもひとり」みたいな感じで落ち込んでしまう。そろそろ浮上したい。
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